“原点回帰”でさらに活躍を強く誓いました。
プロ1年目の昨季を「すごく苦しくて、考えさせられた1年でした」と振り返ったのは漁府輝羽(ぎょふこうは)選手。
岡山県出身で、おかやま山陽高校から東北福祉大学に進み、2024年育成ドラフト10位指名を受けて福岡ソフトバンクホークスに入団しました。
183センチ、96キロ(ドラフト当時)の恵まれた体格を生かしたパワフルなスイングで、⾧打力が魅力のポテンシャルを秘めた右の大砲候補です。

初めてのプロの世界、目の当たりにしたのは厳しい現実でした。
「今までと違って結果が数字として出て、数字を求められる世界。打てない時の方が多かったので、苦しかったですけど、打てないからこそいろいろ考えて分かったこともあったので、いい経験でした」と野球人生で最も深く野球と向き合った1年でした。
3、4軍戦にチーム最多の105試合に出場。「1年間戦うのはキツかったけど、こんなに試合が出来るのも初めてだったので、その楽しさもありました」と充実した1年を振り返ります。
挫折を乗り越えられた恩師の言葉
漁府選手がプロ野球への思いを強くしたのは高校時代。たくさんの経験をした3年間があったから、強くなれました。
3年生の時には、大きな挫折がありました。「いろんなトライアウトも受けたし、プロ志望届も出しました。でも、声は掛からなくて…。もう野球はいいかなって心折れかけて、野球から離れようと思ったんです」と傷心した18歳。
そこで再び立ち上がり、夢を追い続けられたのは、恩師のお陰でした。
おかやま山陽高校硬式野球部の堤尚彦監督です。「堤先生がずっと声を掛けてくれて、いろんな言葉を頂いて、もう1回頑張ろうと思いました」と漁府選手。
野球を辞めたくなった時、堤監督に言われた「神様は乗り越えられる者にしか試練を与えない」という言葉。
大学野球も決して上手くはいかなかったけれど、乗り越えられたのは恩師の言葉が胸に刻まれていたからでした。「試練与えてくれたよな、乗り越えられるよな」、そう自分に言い聞かせて、もがきながら夢の舞台にたどり着くことが出来ました。

“応援されるチーム”で”応援される選手”に
2017年夏、おかやま山陽は春夏通じて初の甲子園に出場しました。夢舞台への切符を掴んだ岡山大会の決勝戦を、当時中学3年生だった漁府少年はスタンドから見つめていました。創志学園との決勝戦は、延長11回までもつれる激戦でした。雨のため、8-8の同点で打ち切られ、翌日再試合となりました。
「僕は最初、創志学園が気になっていたんです。そのつもりでこの決勝を見に行ったら、おかやま山陽がどんどん追いついていって、球場全体が山陽を応援していって…。こんな応援されるチームがあるんだ、すごいなと思って」と漁府選手。自然とおかやま山陽へと心が移りました。
そして、導かれるようにして同校に進学。”応援されるチーム”を築いてきた堤監督との出会いが、漁府選手の”運命”を変えてくれました。
2006年に同校野球部の監督に就任した堤監督は、自身の大学卒業後、青年海外協力隊(JICA)に入隊し、ジンバブエやガーナなどで野球普及活動を行ってきました。堤監督の経験や思いはおかやま山陽硬式野球部の部訓に込められており、その1つが「野球を世界に普及する」こと。甲子園出場は”目的”ではなく”手段”とされています。単に勝つこと、強くなることを目指すのではなく、野球を通しての人間形成に力を入れています。
漁府選手も、そんな理念のもとで野球人として成長しました。「堤先生のことを慕って野球部に入った人もたくさんいると思う」と語るほど、影響を受けた時間でした。

そして、今オフ1年ぶりに母校へ足を運びました。「いろいろ思い出しますし、刺激も貰える。ここで過ごした3年間が1番濃い時間だったと思うので」と改めて、胸を熱くしました。
高野連に申請をした上で、母校で練習をしました。アップやランニングメニューから一緒に行い、堤監督から「みんなの前で打て〜」と言われ、”成長した姿”を思いっきり見せました。
「選手もいろいろ聞いてくれるので、教えるということは、自分も見つめ直すことになるし、モチベーションになりました」と貴重な時間を過ごしました。

原点に帰り、気持ちを奮い立たせた漁府選手。2年目の覚悟をより強く抱いた帰省となりました。「去年より倍の成績を残す!」と気合い十分です。
“応援されるチーム”で育った漁府選手は、まさに”応援したい選手”。何事も健気に一生懸命取り組む姿を見て、周囲も思わず笑顔になる。入団当初から、そんな漁府選手の魅力が滲み出ていました。
ちなみに、「漁府」という苗字は家族以外に、「輝羽」という名前も自分以外に、まだ出会ったことがないという”唯一無二の存在”。
これから活躍して、這い上がって、もっとたくさんの人を笑顔にしてくれるはずです。
