福岡ソフトバンクホークスは6日、東浜巨投手の無償トレードによる広島東洋カープ移籍を発表しました。
2012年ドラフト1位で亜細亜大から入団し、ホークス一筋14年。2017年に最多勝のタイトルを獲得、2020年には自身初の開幕投手を任され、2022年にはノーヒットノーラン達成。通算成績76勝46敗、数々の輝かしい成績を収めました。今年はプロ14年目で初めて1軍登板なしに終わりましたが、ファームにいても変わらぬ姿勢で野球に向き合い、腕を磨きました。
今年は、右肩のリハビリや2軍調整が続きましたが、常に若手選手の手本となり、黙々と汗を流しました。クールな右腕ですが、後輩たちにアドバイスを求められれば、優しく丁寧に助言を送りました。
東浜投手といえば、”伝家の宝刀”・シンカー。右腕は「誰でも投げられる球」と謙遜しましたが、自ら時間を掛けて、丹精込めて育て上げてきた大切な球でした。
自身の代名詞ともいえる決め球ですが、ヒントを探す若手選手にも、惜しみなくその握りやポイント、使い方を伝えました。
そんな”伝家の宝刀”の起源について、東浜投手が語ったことがありました。

伝家の宝刀は「甲子園で覚えた球」
沖縄尚学高校時代──。
1年生の頃の持ち球は、ストレートとカーブのみでした。現状打破のため、冬に新たな変化球を覚えようと取り組み始めたのがツーシームでした。
「いろんな人からアドバイスをもらいながら、監督ともいろいろ話しながら。(状態が)悪いときにもゲームを作るには『どういうボール投げようか』と模索していた時期に覚えました」
しかし、当時は「全然変化球としては機能していなくて。基本ストレートだけど、たまにツーシームを投げて、バッターに『今の何?』みたいに思わせようと投げていたボールで。序列としては、1番低い球でした」と振り返ります。
3年春のセンバツ直前のこと。調整登板で滅多打ちを食らい、「このままではいけない」と東浜投手は考えました。真っ直ぐとカーブ、スライダーを投げていましたが、序列の低かったツーシームは1球も投げていませんでした。
そこで、「ツーシームをもっと使うしかない」と覚悟を決めたのです。「いわば、1番信用していなかった、自分の中で優先度が低い球の序列を上げて。満遍なく投げていこうと思い、甲子園で投げたら良くなっていきました」と”覚悟の修正力”をみせたのです。
ご承知の通り、東浜投手は同センバツでエースとして沖縄尚学を全国制覇に導きました。まさに、「甲子園で覚えた球」と共に躍動したのです。
大舞台で投げながら、ツーシームへの手応えを得ていくと、「そこから投げるのが面白くなって。今まで使っていなかった使い方とかも甲子園の試合中にやりだしたりとか。それで覚えていった感じですね」と共に優勝まで駆け上がりました。
のちに進学した亜細亜大では、東浜投手のツーシームが「亜大ツーシーム」「亜細亜ボール」と後輩達に受け継がれていることでも知られています。
今では、シンカーと呼びますが、「起源としてはツーシーム。名残はあります」と東浜投手。
「ツーシームとして覚えたのが派生して、シンカーになった。自分でいろいろ考えて、より投げやすく、シンプルにできるかっていうのをずっと投げながら考えてやってきました」
今ほど情報もなかった時代。「試行錯誤で自分の感覚でやるしかなくて。こうしたらこうなるんだっていう発見を繰り返して今に至るので。自分で掴んでいきましたね」と、まさに野球人生をかけて育て上げた”伝家の宝刀”なのです。
球速が上がると共に、変化の仕方が変わったりもしました。怪我や年齢を重ねる中で、「同じような感覚で投げても、ちょっと落ち方変わったりとか、落ちなくなった時期もある。年齢とともに変化しながら」と今もなお、共に歩み続けています。

“伝家の宝刀”の起源を辿ると、自ら道を切り開いて歩んできた東浜投手の野球人生が垣間見えました。
新天地でも、飽くなき向上心と心の奥に燃える野球への情熱で、もう一花も二花も咲かせて欲しい。
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